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 そそるタイトル、監督名にアーミル・ナデリ。はてこの名前、いつか強烈に記憶していたはずだったのに、すっかり忘れていた、西島秀俊主演映画『CUT』のイラン人監督なのだった。タイトルと懐かしさでソッコー観る。

中世イタリア、南アルプスの麓。小さな村外れに妻と息子と暮らすアゴスティーノ(アンドレア・サルトレッティ)は、作物の育たない不毛の土地に先祖の墓を守り暮らしている。仲間たちが土地を離れていくなか、頑なにこの地にしがみつくアゴスティーノと家族を、過酷な岩山の試練と村人からの迫害が襲う。

まるで神話のような、引き算して描かれる地の過酷。生き延びるだけで精一杯の家族は幼い娘を亡くしたばかりで、それでも岩ばかりの瘦せた土地を父は離れようとしない。
なけなしの作物と襤褸の人形を手押し車に並べ行商に出ては、村の者に異端者だと相手にされず。家族は困窮を極めていく。
ある日、アゴスティーノのいない間に、カトリック教徒らがやってきて妻ニーナ(クラウディア・ポテンツァ)と息子ジョヴァンニを連れ去る。村で無実の罪に追われ逃げ帰った彼はもぬけの殻となった家に帰り、以来ひとりで、すべての元凶である太陽遮る岩山との格闘を開始するのだった。


心地よい昔の音がする。それは台詞少なく、イタリアの農民を描いた名作『木靴の樹』のよう。かつて日本で映画愛を炸裂させたイラン人監督が、今度はイタリアで生命賛歌と奇跡を炸裂させる。
男は忌々しい岩山にひとり、ハンマーを振り下ろす。手に血滲ませ満身創痍で来る日も来る日もハンマーを打ちつづける。
やがて村から逃れた妻ニーナが還り、行方不明になっていた息子ジョヴァンニが精悍な青年になって戻るころ、家族は再びひとつとなる。
執念にとり憑かれた父を迷わず助けるジョヴァンニ、祈るように佇むニーナ....。
そうしてついに、意志の力は山をも動かす、奇跡。ぬくもり。命。すべての根源をみるような大クライマックスへと至る。崩れ落ちる岩山の奥から溢れる太陽のオレンジに画面いっぱい包まれていくのであった。

極限を描くとして、だれがこんな作品を撮ろうと考えるだろうとおもう。
前作かなり変態だった映画愛極まるナデル氏は、やはりかわらず変態であった。

 (イタリア=アメリカ=フランス合作/107min)

山〈モンテ〉 (2016年) 打ち砕け、人間の業を。_d0346108_20393381.jpg



 


# by haru-haru-73 | 2025-11-13 10:01 | 多国合作映画 | Comments(0)

『ヴァルザーの詩と小品』 ローベルト・ヴァルザー_d0346108_10061564.jpg

 鳥影社から出版されたローベルト・ヴァルザー作品集1「タンナー兄弟姉妹」を偶然手に取って、その精神バランスの危うい個性を好きになって、刊行予定の5巻までコンプリートしそう(な予感)、だったのに未だ読まずにいる。
書店で見かけるたび気になっていたところ、古書店でこれをみつけた。

「言葉もなく、ぼくはみんなからはずれた所にいる。」ベンヤミンが、ブランショが、ソンタグが高く評価した伝説の作家ローベルト・ヴァルザー。カフカの「天井桟敷で」のもとになった散文小品「喝采」をはじめ、兄カールの挿絵全点を収めた「詩篇」の全訳などを収録する。(「MARC」データベースより)

前半の4分の1が詩で、残りを小品が占める。
散文に添えられた兄で画家のカール・ヴァルザー(1877~1943)の挿絵あってこそ、というくらい本書を手にしてよかったと思わせるのは詩と兄の挿絵なのだった。

前半のどれもこれもストンと胸に落ちる言葉の連続がうれしい。
夜空の月をぽっかり開いた傷口に喩える感性や、散歩や冬や、眠れない夜の詩がしっくり馴染む。
ところが散文となると小説のプロットのようで物足りずわくわくできない。中長編への構想とおもえば読み易かったのかも。

これを、”ドイツ語筆記体による末期時には1ミリほどの微小文字で書き、取捨選択しペンで推敲清書した”(Wikiより)と想像すると感慨深いものがある。名付けて「鉛筆書き書法」というやや病的な執筆方法をとった人。人生の後半25年余りを精神病院で過ごし、孤独と散歩を愛したローベルト・ヴァルザー(1878~1956)は兄カールよりずっと長生きをした。

ヘルダーリン、セザンヌ、ヴァン・ゴッホ、パガニーニと芸術家たちをテーマにした小品もおおい。「パガニーニ」など一度も聴いたことのない空想の産物と、いいながら熱弁ふるう不可思議な読みもの。
ヘルダーリンにゴッホに、才能ある芸術家が陥った精神不安に自らを重ねる。まるで働くことで穢されない高等遊民のような、そうあるべき僕=ローベルトによる逃避と肯定と親和のコトバの連なり。
たしかに誰だって心のどこかでは自分のことだけにかかずらわっていたい。何にも煩わされず自分の世界に没頭できる身分になっていたい。生活はやっかいだ。まず働かなくてはならない。それを人生のわりと早いうちに断念して身内に甘え暮らした、そいういう精神の持ち主であったことは端々にかんじる。けれどもキライになれないどころか、おかしな親しみのある人。

作品集コンプリートへの道は遥か先でも、ゆくゆく読んでいけたらいいなあと今回もまたおもってしまった。



# by haru-haru-73 | 2025-11-11 20:33 | | Comments(0)

キタニタツヤ One Man Hall Tour 2025 “Crepuscular”_d0346108_19252833.jpg


 ことしもキタニタツヤのワンマン・ライヴへ行く。4年目にしてホール・ツアーになった、大通り沿い創世スクエアのやんごとなき劇場hitaruにて。バレエでもオペラでもない、キタニさんのライヴでまさかhitaru初体感するとはおもってもみなくてうれしい。

“Crepuscular(クリパスキュラー)”とは『まなざしは光』の歌詞「薄明かりがひとすじ」にリンクしていく希望を感じさせる。ツアービジュアルも素敵だ。

耳をつんざくライヴ感から、着席して聴くホールの落ち着きへ、まったく違和感なかった。
2階席4列目、観やすい。この界隈の皆さんはほぼ立ち上がってノリノリで聞き惚れていたし、付き合ってくれた友は初めて雰囲気じゃなく曲を楽しんでくれたようだ。好きになってくれたようだ。



キタニタツヤ One Man Hall Tour 2025 “Crepuscular”_d0346108_19250883.jpg


新旧まんべんなく、尖った曲も、そうでない柔らかな曲も取り揃えた、ちょっとした完成系のようなライヴだった。
『悪夢』『プラネテス』『聖者の行進』『旅にでも出よっか』『まなざしは光』が響いたしなにより『ユーモア』を生で聴けたのが幸せ。こんなに売れても撮影OKというまま。

最後になるかもなんて前言撤回して、また来年も来るだろうとおもう。どうやらキタニさんの音楽はわたしに響き続けている。孤独を愛するちょっとダークでオタクな彼のコトバを聴きつづけていたい。


キタニタツヤ One Man Hall Tour 2025 “Crepuscular”_d0346108_08403887.jpg




# by haru-haru-73 | 2025-11-11 09:50 | ライブ | Comments(0)

 『インファナル・アフェア』シリーズの脚本家フェリックス・チョン氏による監督作にトニー・レオン × アンディ・ラウが20年ぶりに共演と、きいて気になるファンはきっと多い。
80年代の香港を舞台に、バブルの波に乗じて巨万の富を築いた凄腕詐欺師(レオン)と、犯罪の立証に執念を燃やすエリート捜査官(ラウ)のスリリングな攻防を描く金融クライム・サスペンス。

なのに冒頭から一貫してほーんのすこしも面白くない。中国資本の入った香港映画はもはやハリウッドの真似事を繰り返すばかり。
スケール大きくスタイリッシュにシリアス風コメディを狙っても、成り上がっていく詐欺師と追う捜査官のバチバチに感じ入るものはなにもない。こんなになにもない作品って、そうそうない。
『インファナル・アフェア』を作った感性はどこへいってしまったのか。格好良かった名優たちよカムバックと本気で思う今日この頃。
最近『恋する惑星』の垂れ流し上映を(自宅で)しているせいかショックを隠せないんでもある。

作品には関係ないけれど、台湾になにかあると、つぎは台湾映画が観られなくなってしまうのだな。香港映画が骨抜きとなったように。コロナ禍、『トワイライト・ウォリアーズ 決戦! 九龍城砦』の撮影が広州から香港に変更されて自由になって大ヒットしたことなどおもうと、文化の違いを楽しめる映画の力を感じないでいれない。
香港 × 映画の復活を祈らずにいれない。



ゴールドフィンガー 巨大金融詐欺事件 (2023年)_d0346108_20015755.jpg

 (香港=中国合作/126min)


# by haru-haru-73 | 2025-11-07 20:20 | 香港映画 | Comments(0)

 例えばDCシリーズ『ジョーカー』や、砂漠の暴走族映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』など、近年人気シリーズに新たな傑作が生まれた驚きは大きい。いっぱいコーフンさせてくれたのだ。
大好評を経て、先年公開された続編のそれぞれ後日談であれ前日譚であれ、メイン・キャストに新たに女性を据えた最新作はけれどどうしても食指動かず、本編も『マッドマックス:フュリオサ』も劇場で観ることはなかった。
圧倒的男気映画の魅力というのがある。

心優しき青年から悪のカリスマ”ジョーカー”へ。変貌を遂げた孤独なアーサー(ホアキン・フェニックス)のその後を、精神病院で出会う謎の女性リー(レディー・ガガ)との狂気の恋を軸に描き出す。

前作がアーサーの独壇場であったところから、歌姫ガガの登場で妄想のミュージカル・シーンが加わり硬質さは失われてしまった。
骨と皮だけの体に抵抗を忘れた従順なアーサーが、じつは暴発の機会を窺い、リーに恋することで生気を取り戻していく、そこに無様さすら漂う。かつて”ジョーカー”を漲らせていったアーサーはもういない。リーに踊らされた挙句の終焉に虚しくないわけがない。彼にこんなラストが用意されてしまうなんて悔しい気持ち。

さらに惜しいのはラストシーンでキーパーソンとなる若者を、チラリズム的にみせる幾つかのカット。ひとつの台詞もない入院患者が”ジョーカー”を終わらせるためだけに用意されたことを早くから悟らせてしまうようで残念だ。
どうしても辛口になるのは前作の出来があまりによかったためとおもわれる。ホアキン・フェニックス氏の怖いほどの熱量と、歌姫ガガの演技はそう悪くなかったのだ。弱者に向けられる悪意への嫌悪感も。


ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ (2024) くだらない人生の舞台で踊れ_d0346108_11400678.jpg


# by haru-haru-73 | 2025-11-04 13:00 | アメリカ映画 | Comments(2)